東部がお届けするインフォメーション・レター

Vol.792017年3月号

PICKUP.1e-pile next 広がる活躍のイメージ

  • ■ 鉄道・軌道上施工

    ■ 高台・某駅舎工事

    ■ 工場内施工

    ■ 狭隘地での施工

    ■ 離隔施工

    ■ 作業構台から-5.0m地盤施工

PICKUP.2経理マンが行くマタ・ハリ

 3月に入り春一番、二番、なんと今年は三番まで吹き荒れました。
この風で一気に花粉症の方にはつらい時期となりましたが、暖かい春はもうそこまで来ていると思うと少しワクワクしますね。
 さて先日、北朝鮮の暗殺事件がありました。今の時代に暗殺かと耳を疑いましたがどの国でおきても不思議ではない事件なのかもしれません。暗殺の歴史は古いようですが、暗殺ですから事故のように見せかけた死なので暗殺事態がいつ頃から始まったのか、はたしてそれが暗殺だったのかなど、定かではありません。有名なところでは「マタ・ハリ」がいます。マタ・ハリはダンサーとしての芸名で、本名はマルガレータと言い、世界で最も有名な女スパイとなりました。マタ・ハリは1876年8月7日、オランダフリースラント州にて、4人兄弟の長女として生まれました。成人後、ダンサーとなりましたが、実は高級士官や政治家を相手とする高級娼婦でもあったのです。数知れないほどのフランス軍将校やドイツ軍将校と関係を持ったとされ、国際的なスパイの道具となっていました。1917年に、彼女はフランスで二重スパイとして第一次世界大戦中に多くのドイツ人とフランス人兵士を死に至らしめたとの容疑で起訴されます。彼女は有罪となり、後にサンラザール刑務所にて銃殺刑に処せられますが、彼女がドイツとフランスのどちらの陣営に対しても意味のある情報をもたらした証拠は一つもありません。
 彼女は妄想癖もあり、あるインタビューでは次のように答えています。「私はインドで生まれガンジス河のほとりで舞踊を習い、密教寺院で踊ったこともあった。神々の像の前で踊る聖なる人々に交じって踊った時は恐ろしかったけれど愉しかった。」彼女の妄想はさらなる妄想を呼び、それは嘘になりました。彼女の妄想は、癖でもありましたが生活の為でもあったのです。2人の子供を産み離婚歴のある普通の女性でした。彼女は自分の過去と名前を棄て、マタ・ハリとして生きたのです。第一次世界大戦が勃発し、生活が苦しくなったマタ・ハリは、2万マルクの報酬と引き換えにドイツのスパイとなり、1915年にフランスに渡ります。スパイとなった1年後、イギリス諜報機関は、マタ・ハリが「間諜H21」のコードネームを持つスパイということを突き止め拘束されます。たった1年のスパイ期間でしたが容疑は多数であり特殊機関のベテランであっても、これだけのスパイ行為は行えないだろうとされる数々の容疑が課せられました。専門家は、解決されていない多数の容疑を彼女に全部押し付けたのであろうと後に語っています。素人相手の尋問、裁判は、連合軍にとって格好の餌食だったに違いません。彼女は逮捕後わずか8カ月後の1917年10月15日に処刑されます。濃紺のマントをまとい、大きな帽子をかぶった彼女はにっこりと数人の兵士に挨拶すると、足もとのぬかるみを気にしながら付き添いの尼僧に右手を預けまっすぐに前を向き、「綱などいりません。私の胴に腕を回さないでください。目隠しもいりません。」と凛と顔を上げ、銃殺隊に投げキッスを送ったあと、銃声とともに息絶えました。あまりの美しさゆえ、処刑の際、銃殺隊はマタ・ハリの美貌に惑わされないよう目隠しをしなければならなかった、などの逸話が数多く残っています。
 処刑前にマタ・ハリが口にした物は、気付けのラム酒一口だけだったそうです。失敗の許されない決死の覚悟で遂行するスパイ行為とは何なのでしょうか。命と天秤にかけられるほどの命以上のものとは工作員にとって何の意味を持つのか。世界にはこのようなスパイ活動者が数万人とも数百万人とも言われています。今回の事件の陰に拉致被害者やその家族の方々の気持ちを察し何とも言えない気持ちになりました。

PAGE TOP